2012年08月03日
塩飽勤番所・・・幕末編(オリーヴァー)
戦国時代〜江戸時代中期まで繁栄を極めた塩飽水軍
デスが・・・八代将軍吉宗の享保の改革により
独占市場であった塩飽水軍にも陰りが出はじめマス。
海運業が入れ札になって賃金が安くなっちゃった・・・て事デスね。
次に塩飽水軍が脚光を浴びるのが
幕末なんデス。
上の写真は「咸臨丸」の模型。
軍艦奉行 木村摂津守のもと
勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎が乗り込み
日本人だけで初めてアメリカまで航海した咸臨丸
は〜いココ!試験に出マスよ〜ってな感じデスが
察しのいい方はお気づきデスね!
咸臨丸の水夫は塩飽水軍の人名たちだったんデス!
なので・・・
塩飽勤番所には咸臨丸乗組員たちが
持ち帰った資料も多く展示されてイマス。
さすがは人名。航海日誌のようなものまで
しっかり残してイマス。
1860年1月、品川沖を出航した咸臨丸は
実は小さなフェリー位の大きさ。
分かる人は「めおん」とかに90名以上乗船した・・・とご想像クダサイ。
冬の太平洋は荒れて、それはもう!大変な航海だったそうデス。
本島を歩くと、時々見かけるプレート。
咸臨丸乗組員(=塩飽水軍)の生家に掲げられてイマス。
帰りのフェリーで船酔いしないよう・・・
ではなく
遠い海に思いを馳せるオリーヴァーin本島デシタ!
2012年08月02日
木烏神社・・・本島泊地区(オリーヴァー)
珍しい「虫送り」を行う、本島の泊は港のすぐ近く。
虫送りの神事も行われる「木烏神社(こがらすじんじゃ)」デス。
こちらの伝説によると・・・・
ヤマトタケルノミコトが瀬戸内海に悪い魚を退治に来たことがあるそうで。
今でも春頃は靄(もや)のかかることの多い瀬戸内海。
ヤマトタケルノミコトも靄で前が見えず動きが取れなくなってしまいました。
その時一羽のカラスが現われ本島まで案内をしたそうデス。
「大鳥居」は、織田信長から朱印状を与えらた年寄衆の一人が寛永4年に奉納したもの。
敷地内には、江戸時代、塩飽勤番所から島民へおふれの札を出した「制札場」の建物も残っています。
文久2年に建てられた「千歳座」は現役の舞台として
今でも使われてイマス。
可愛らしい名前の「木烏神社」デスが
昔々から瀬戸内海の水先案内人として存在し、
また、今は本島の歴史案内をしてくれてイマス。
注:オリーヴァー烏についていくと必ず迷子になりマス
(レポーターの被害続出中)
2012年07月31日
本島観光案内所(オリーヴァー)
日本の歴史の中心にいた塩飽水軍の本拠地、
本島に到着後、港から歩いて1分!
「本島パークセンター」観光案内所がありマス。
こちらでは丸亀観光大使の方々のガイドをお願いできるんデス。(何人で頼んでも一日\2000でお得!)
そんなわけで、今回ガイドをお願いしたのは「ほんじまコンシェルジュ」三宅邦夫さんデス。
「いえ〜ぃ!」ってかるすぎるわあっ!
とは言いつつもガイドは、まさに!立て板に水!!!
「ここ塩飽勤番所の建物は、元々船大工から大工さんになった
塩飽大工が建てたので、屋根は船底の要領で丸く造られているんです。心意気ですね!」
何だか素敵な砂利がひいてありマスねえ・・・♪
「その場所は、お白洲。勤番所は裁判所でもあったんです。ちょうどそこに罪人が座らされて、塩飽水軍の人名達の代表者、年寄りから裁きを受けたわけです。」
罪人かあっ!!!
「織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、それぞれから朱印状を貰い本島は
塩飽水軍の自治領だったんです。」
ほうほう!なるほど・・・・。
「塩飽水軍は武力を持たない船方衆。最初、武力を持った村上水軍の配下だったんです。
第一時大阪湾木津川口の戦い、1576年に織田信長は毛利方の鉄甲船にやられて負けてしまいます。
ところが1576年11月6日、塩飽水軍は織田方、村上水軍は毛利方に付き、生き残り繁栄したのは織田方についた塩飽水軍でした。」
ちなみに・・・三宅さんの得意分野は歴史!スラスラと年代から日付けから何も見ずに説明してくれマス。
本島観光案内所には他にもガイドさんがいて、
それぞれ得意分野は違うんだそうデスよ!
大変、有意義な時間を過ごせマシタ。
三宅さん、ありがとうございマシタ。
オリーヴァー、数十年ぶりの日本史デシタ!
(いったい何からやり直せばいいのか・・・)
人名の島・本島〜塩飽勤番所〜(ニーナ)
香川県丸亀港からフェリーで35分。大小、28もの島々からなる塩飽諸島。
その中のひとつ、本島に行ってきました!
目の前に瀬戸大橋が見えます
本島観光案内所の「本島コンシェルジュ」三宅邦男さんに島内を案内していただきました。
本島は豊臣秀吉の時代に自治権を与えられた塩飽水軍の船方衆、
人名(にんみょう)の島です。
人名の代表者、年寄りが交代で勤務して政治を行われていたのが、「塩飽勤番所」。
全国でたった一か所しかない場所なんですよ。
人名から選出された4人の年寄によって政治が行われ、明治維新まで人名達の自治が続きました。
現在、資料館として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の朱印状が大切に展示されています。
徳川家康の朱印状は三つ葉葵の塗りの箱、白木の木箱に収められ、そのうえに
一抱えもある石の箱、石櫃に入れられて
そして、朱印蔵に大事に保管されていたそうです。
この石櫃は小豆郡豊島の「豊島石」。
豊島石は火に強い性質のため大切な朱印状を収めるために選ばれました。
ずっと、昔から「豊島石」は火に強い石として名高く、
大事な所に使われていたんだなあと感動しました
塩飽勤番所には
歴史を感じさせるものがたくさん展示されています。
ニーナの本島・歴史の旅はまだまだ続きます
その中のひとつ、本島に行ってきました!
目の前に瀬戸大橋が見えます
本島観光案内所の「本島コンシェルジュ」三宅邦男さんに島内を案内していただきました。
本島は豊臣秀吉の時代に自治権を与えられた塩飽水軍の船方衆、
人名(にんみょう)の島です。
人名の代表者、年寄りが交代で勤務して政治を行われていたのが、「塩飽勤番所」。
全国でたった一か所しかない場所なんですよ。
人名から選出された4人の年寄によって政治が行われ、明治維新まで人名達の自治が続きました。
現在、資料館として織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の朱印状が大切に展示されています。
徳川家康の朱印状は三つ葉葵の塗りの箱、白木の木箱に収められ、そのうえに
一抱えもある石の箱、石櫃に入れられて
そして、朱印蔵に大事に保管されていたそうです。
この石櫃は小豆郡豊島の「豊島石」。
豊島石は火に強い性質のため大切な朱印状を収めるために選ばれました。
ずっと、昔から「豊島石」は火に強い石として名高く、
大事な所に使われていたんだなあと感動しました
塩飽勤番所には
歴史を感じさせるものがたくさん展示されています。
ニーナの本島・歴史の旅はまだまだ続きます
2012年07月09日
もう一つ・・・虫送り・前編(オリーヴァー)
丸亀市の港から約20分。本島でも「虫送り」があると
聞いたオリーヴァーは興味津々でやってまいりマシタ♪
港から歩いて数分、泊という地域にある「木烏(こがらす)神社」
(ちょっとカワイイ名前デス)
まずは神社でお神酒と
シャシャキと言う木の葉で手のひらにいただいた、
お米をいただきマス。
その後、場所を移して自治会の方々で般若心経をあげマス・・・
お経をあげているのは
なんとこの小さな船に向かって。
乗っているのは・・・もちろん虫サン。
いわゆる害虫デス。
お経が終わるとおもむろに用意されたのは
ひとつの珠が直径10cmはある巨大な数珠デス。
テンポの速い鉦(かね)の音に合わせて
「なんまいだ」を唱え、思いのほかスピーディーに数珠をまわしマス。
大きな珠がまわってきたら一回・・・で!百回まわしマス!
昔々は捨万回以上回したらしく
数を数えるための由緒ありそ〜な
算盤には恐ろしい数字が書かれた木札がついていマシタ!
と、とにかく百回まわしたあとは
その数珠で身体を撫でていただきマス。
悪いところが無くなりマスよ〜に。
本島 泊の虫送りはこれからが本番デス!
(後編につづく)
もう一つ・・・虫送り・後編(オリーヴァー)
般若心経に百回の数珠まわしをあげてもらった虫サンは・・・
船に乗せられたまま
泊 自治会のお母さんの肩に担がれて表へ。
先頭の鉦が「カーンカーン」と時折響き
皆さん、行列して泊の要所で
先に「お札」のついた竹の棒をさしていきマス。
この時に去年のものを回収してイマシタ。
約2kmを和やかに進む行列。
行き先は堤防の先・・・海デス。
そして・・・
潮に乗って流れていく虫の乗った船。
「さよ〜なら〜」
こうして、本島・泊地区の虫送りは終了シマシタ。
今年も害虫に煩わされることなく五穀豊穣でありマスように!
泊 自治会の皆さんが自宅で採れたもので
ごちそうしてくれマシタ。
会長さんが見せてくれた、昔の船。
昔は藁船だったそうデスよ。
泊 自治会の皆さま!大変お世話になりマシタ!
たくさん歩いた後のビールは美味しかったデスね!お母さん!
ありがとうゴザイマシタ♪
(前編へ)