
9月15日に開催された「教育シンポジウム」
元文藝春秋の編集・作家、元教員。そしてこの場所にかつて大石先生として立った女優
高峰秀子さんの養女でもある齋藤明美さんの基調講演は感動的デシタ。
華やかな映画の中で輝いていた高峰秀子さんの本質を知る斎藤さん。

「高峰が大石先生として立った教壇に、自分が立っていいのか・・・」と
ご自身も感動されつつ
教育について、高峰秀子さんの半生を通して語ってくださいマシタ

高峰秀子さんは
「たった5歳で養父に連れられて、映画『母』の子役オーディションに思いつきで
出されたんです。他のお子さんは可愛らしい格好をしていたらしいんですが
高峰は普段着の七分袖のワンピースだったそうです。」

5歳で映画デビュー。天才的な子役として次々に仕事が入ったそうデス。
「小学校1年生の担任の先生が、学校に行けずロケに出る高峰に
ご自身のお子さんが使っていた絵本を渡して。それで高峰は字を覚えたんです。」

平仮名やカタカナは絵本等で覚えたという高峰さん。
「13歳で松竹から東宝に引き抜きがあり、その条件の中に
女学校に行かせてやる、と言うのがありました。」

教育を受けることを諦めなかった高峰さんデスが・・・
「年間に20本からの映画に出演していて、ほとんど学校に行けなかったある日、
映画を取るのか学校を取るのか、迫られたんです。」
『あなたはもう、映画の世界で生活できているのだから・・・』
こう先生に言われたとき、一体どんな気持ちだったのでしょう。

ご自身を家族の『金銭製造機』と思い学校を諦めなければいけない、
「学校へゆかなくても、勉強はできる、そう自分に言い聞かせたそうです。」
『それでは、学校サン、サヨウナラ!』
と高峰秀子さんは著書『わたしの渡世日記』に書かれたそうデス。

映画 二十四の瞳で助監督だった松山善三さんと出会い結婚。
「著書『わたしの渡世日記』はそのまま日本映画の歴史であり、
あれほど自分を突き放して自伝を書いた人は他にいない。作家としてもすごい人なんです。」

「文才もある、歌も上手い、絵も描ける。本当に万能の人が『学校に行けなかった』だけで
引き算や割り算ができなかった。本当に痛ましかった・・・。」

高峰さんの半生を振り返りつつ、教育の現場にいる先生方へ、
「先生の一挙手一投足が子供を変える、責任が重いんです。
どこからでもかかって来い!と言う人間としての力、
心の命を預かっているんだと、私は思います。」

「学びたい、という気持ちを育てることが教師だと思う・・・
大変な仕事です。」
ちょっとした芸能界暴露話で場を盛り上げながら
とっても心に響くお話をしてくださいマシタ。

晩年の高峰秀子さんは、松山さんや斎藤さんと旅行に行かれては
松山善三さんや斎藤さんとの共著エッセイを発表し、幸せだったようデス。

「今は学校も親も責任を取りたがらない。学校も家庭もそれぞれ
100%の力で子供に接するべきなんです。
100%+100%。余剰がでたっていいじゃないですか!!」
と学校の在り方について語られたあと
オリーヴァーの「家庭の役割は?」の質問に答えてくれマシタ。

40年たってもまだまだ売れている『わたしの渡世日記』読みたくなりマシタ。

さて・・・恍惚の人(1973年)人間の証明(1977年)などなど代表作の多い松山善三監督・・・。
今回のシンポジウムでも懐かしい小豆島をこっそり楽しまれたそうデスよ。
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